ノーベル賞は落ちこぼれでもOK?

ノーベル賞は落ちこぼれでもOK?>


ご存知のように、今年度のノーベル生理学・医学賞受賞者に、英国ケンブリッジ大学のジョン・B・ガードン教授と京都大学山中伸弥教授が選ばれました。

特に、山中教授の受賞により日本のノーベル賞受賞者は19人に増えたことになり、喜ばしい限りです。

さて、英国のメデイアが、ガードン教授は学生時代の成績は酷いものであったと報じています。


科学者の道「ばかげてる」 受賞決定者、通知表で酷評

 科学者を目指すのはばかげた考え−。英メディアは9日、 山中伸弥京都大教授(50)と共に2012年ノーベル医学生理学賞の 受賞が決まった英ケンブリッジ大のジョン・ガードン名誉教授(79)が、 15歳当時通っていた英名門のイートン校の通知表で酷評されていたと伝えています。

 「破滅的な学期だった」のひと言で始まる1949年夏学期の通知表で 担当教師は、ガードン氏の学業について「満足するには程遠く、リポートの 中には50点中2点というものもあった」と指摘。「(教師の)言うことを聞かず、自分のやり方に固執する」とされていました。

 将来の道も「科学者を目指すと承知しているが、ばかげた考えだ。 本人にとっても教える側にとっても完全な時間の無駄」と書き、通知表を締めくくってあったそうです。

 ちなみに、この年のガードン氏の生物学の成績は250人中最下位だったとか。


また、中央日報

成績最下位に手術下手な医師…ノーベル賞、落ちこぼれの反乱

というタイトルで、医学の歴史を新たに書き加えている2人の「天才科学者」だが、彼らの人生は挫折の連続だった。
2人が「数多くの失敗に挫折し、挫折こそ成功の父であることを見せてくれた人物」と紹介していました。

以下に、その記事の一部をお示しします。

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ガードン教授は一般人の見方では異常な知能を持つ子どもだった。8歳の時に知能指数(IQ)検査でひどく低い点数が出てきた。ガードン教授は、「オレンジを描けとの問題に丸い果物を描いた他の人たちと違い、幹にぶらさがった姿を描いた。そんなことが問題になった」と話した。

イートンスクールに進学しても科学遅進児だった。16歳の時の生物科目の成績表は250人中250位だった。当時生物の教師はガードンの成績表に「科学者になりたがっているがいまの成績では話にならない。習う人と教える人ともに時間の浪費」と評価した。仕方なくガードンは古典文学を専攻に選んだ。だが、夢をあきらめきれなかった彼は結局動物学に専攻を変え、10余年ぶりに世の中を驚かせた。オックスフォード大学博士課程大学院生だった1962年、史上初めてカエルの複製に成功し科学界を引っくり返したのだ。これは体細胞を利用したiPS細胞研究の礎石になった。

80歳を控えたガードン教授はまだ毎日自身の名前を取った研究所に出勤しフルタイムで勤める。彼は63年前の成績表を挟んだ額縁を机に立てておき、「実験がうまく解決しない時ごとにこの成績表を見ながら科学に才能がないという先生の話が正しかったことを実感する」と明らかにした。一時自身を絶望させた言葉が成長の支えになったことを告白したわけだ。

山中所長も自身の研究者人生を「失敗ばかり重なり20年余りの間ずっと泣きたくなる挫折の連続」だったと自評した。神戸大学医学部を卒業して国立大阪病院の整形外科の研修医だった時は手術がうまくできず先輩たちから「ジャマナカ」と呼ばれた。実際に10分ほどで終わる簡単な良性腫瘍摘出手術に1時間を超えることが常だった。

結局整形外科医師になることをあきらめた彼は研究者に方向を定めた。重症リウマチ、脊髄損傷など特別な治療法がなくて悩む整形外科患者を見ながらいつも考えていたものでもあった。大阪市立大学大学院に進学し薬理学を学んだ彼は、93年に米サンフランシスコのグラッドストーン研究所に留学した。彼がiPS細胞研究にアイデアを得たのもこの時だった。だが、96年に日本に戻った山中に与えられた任務はマウスの世話だった。山中のニックネームもネズミの鳴き声から「ヤマチュー」に変わった。3年間同じ仕事をした山中は結局うつ状態になった。

彼が「最後の勝負」と考えたのが奈良先端科学技術大学院助教授の応募だった。実績が優れた競争者と違い立派な発表論文もなかった彼は、「私がiPSをやります」と堂々と公言して審査委員の目に止まり合格した。彼は「座右の銘はふたつ。まずは夢またはビジョン、2番目はハードワーク」と強調する。彼のノーベル賞受賞も所感もこうだった。「全人類が健康で長寿できるようにするのが私の夢でありビジョンだ。また、それを成し遂げるために決して挫折を恐れない。9回失敗しなければ1度も成功できないためだ」。山中は不充分な研究費を確保するためインターネットで募金を集めている。

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2人は、まさしく挫折から立ち上がった方々です。
山中教授がおっしゃる、“夢とビジョン”、そして“ハードワーク”、是非とも若い人もこの偉業に続いてくれることを期待します。